写本学(古書体学)

ヨーロッパ中世にラテン語で書かれ、主に大学で使われていた写本 (つまり公的証書などではなく、大学で使われていた学術のための写本)に関する日本語のページが あまりないので、いくらかでも参考になれば、と思い記します。

「写本学」という用語の問題

ヨーロッパ近代語から日本語への辞書を開いてみると、辞書にもよるのですが、 この分野に関して訳語の混乱とでも言うべきものがあるようです。 例えば palaeographia、codicologia(に由来する近代語での相当の言葉)の両者とも 区別なく(古)写本学とされていたりします。 また diplomatica も、そこに含まれていることがあるようです。

実際のところ、歴史的由来としては、そして、専門的な研究分野としての区別ではなく、 大学の教育プログラムなどにおける実質的な教育内容としては、 必ずしも厳密に、そして明確に区別されるものではないのですが、 下にあげる『西洋中世学入門』の訳語を用いながら大まかに説明すると、 palaeographia(古書体学)は、その名(古い書字)が示すように、書体とその変遷に関係する諸々の事象を扱い、 codicologia(古書冊学)は、書物(codex)がどのように生産され流通していたかを分析し、 diplomatica(文書形式学)は、公的文書、証書等を検討します。

ここで話題にしたいのは主に palaeographia ですが、 ヨーロッパ語でも、専門家以外の間で大雑把に palaeographia と言われる場合、 上述の3つの分野を含んで、非専門家として、未刊行の写本を読むための最低限の知識、を 意味していることが多いように思われます。

参考になる書物やサイト

概要がつかめるもの

本の後半部分はここでのテーマに必ずしも直接関係しませんが、前半部分に写本学関連の基礎知識が 丁寧にまとめられている日本語の書物としては

『西洋中世学入門』 高山博、池上俊一編(2005年 東京大学出版会)

があり、欧米での基本書リストもあがっています (ただしイタリアの文献が、あまり紹介されていません)。

またネット上で見られる詳細な文献表としては

このページも含めたネット上の写本学関連のページへのリンク集としては、 同学の Marc SMITH 氏による

が、ネット上で写本が見られるサイトへのリンクも含め、非常に詳しいです。

基本書

上の『西洋中世学入門』でも紹介されていますが、Bernhard BISCHOFF の Paläographie des römischen Altertum und des abendländischen Mittelalters は各国語に訳されており、 基本書とされています。この分野に踏み込んだ人は、どれかの言語の版を持っているはずです。 ただ、この碩学の成果の大成でもあるので、 純粋に実用的な知識が欲しい場合は、目的に合致しないかもしれませんし、 基本書ではあっても入門書ではないかもしれない、ということです。

より実用的であり、ここで問題にしているようなテキストに直接関わるのは

Paléographie du Moyen Age, J. Stiennon, 1999(第3版), Armand Colin

だと思います。 この本が良いのは、多くの写本画像が、そのトランスクリプションも含めて掲載されていることです。 ただし残念なことに、しばしば品切れ状態になっているので(おそらく今もそうかと思います)、 古本で手に入れるか(教科書枠で出ているので、フランスでは古本でも手頃な値段で手に入るはずです)、 図書館で見るほかありません。

また、上記の『西洋中世学入門』では紹介されていませんが、イタリアにおけるこの分野の古典的書とされる

Lezioni di paleografia, Giulio BATTELI, 2002 (第4版), Libreria Editrice Vaticana

も、書体の変遷が、ある程度の長さの文章の複写によって追いやすい点で便利です。

また、書体に関してはイタリアに次の基本書があります。

Breve storia della scrittura latina, Armando PETRUCCI, 1992(増補新版), Bagatto Libri

こちらも、丁寧な説明と図版で書体の変遷が詳しく追えます (しかし、独学向きではないかもしれません)。

おそらく多くの人たちにとって一番関係がある時代については

The Palaeography of Gothic Manuscript Books --- From the Twelfth to the Early Sixteenth Century, Albert DEROLEZ, 2003, Cambridge

という本が出て、これは文字についての記述が細かいのと実例が多い点で有用です。

最初の段階でそうした知識が必要になることも、あまりないとは思いますが、 最近出た次の書では、Codicologia とのつなぎとなるような知識が簡潔にまとめられています。

Lire le manuscrit médiéval, Paul GEHIN, 2005, Armand Colin

下に述べるように、結局のところ、文字も省略法も多様であるがゆえに、 個々のケースを通じて学んでいくしかないのですが、 最近出た次の教科書は

Manuel de paléographie médiévale : Manuel pour grands commençants, Michel Parisse, 2006, Picard

多くの例を通して学ぶ構成になっていて、歴史文書が多いですが、独学には便利です。

また、あげられるテキストは(古い)フランス語のものになりますが、 14世紀以降のラテン語写本の cursiva を読まなければいけない場合は

Lire le français d'hier : Manuel de paléographie moderne XVe - XVIIIe siècle, Gabriel AUDISIO et Isabelle RAMBAUD, 2003, Armand Colin

といった、近代語のものもトレーニングに使えます。

辞書

やはり Cappelli の省略法の辞書を最初にあげるべきでしょう。

Dizionario di abbreviature latine ed italiane, Adriano CAPPELLI, Hoepli

幾つも版を重ねています。 手に入れやすいと言う意味でも、携帯しやすいという意味でも基本的なものです。 ただ、省略記号が使われていた年代が書かれていますが、 これについては参考程度にしかならないように思われます。 日本では 東京のイタリア書房が在庫を持っているはずです (実はこの辞書については古い版のスキャンがネット上にあり、検索をかけるとすぐに出てきます)。

この辞書への補遺として

Abéviations latines médiévales --- supplément au Dizionario di abbreviature latine ed italiane de Adriano Cappeli, Auguste PELZER, 1995 (3e éd.), Editions Nauwelaerts

というものがあって、哲学的語彙が充溢していますが、薄い本でもあり、 個人的経験からすると、もちろん持っていて損はしませんが、無理をしてまで手に入れるものではないと思います。

他にも最近は オンライン辞典がありますが、 固定IPを要求されるので個人使用には向かないかもしれません。

ラテン語の辞書に関して一点。 研究社の羅和辞典(田中秀央著)は中世の語も含んでいて携帯という面からも悪くないので、 必ずしも必要とされる場面は少ない(それで足りなければ持ち運べない大辞典が必要になる)と思いますが、 中世のラテン語に関して最近出た辞書を一つ紹介しておきます。

Lexique Latin-Français Antiquité et Moyen Age, 2006, Picard

これは中世の文献を読む際に持ち運べるような語彙集を目指したもので 用例等は全くありませんが、語の確認には便利です。ただ研究社のものより若干かさばります。

ちなみにラテン語の辞典に関しては、Du Cange のスキャン版が Stanford 大学で落とせます。

あまり正確ではないですが OCR データも入っているので一応検索できます。

インターネット上の教材

インターネット上の教材として、上述の Marc SMITH 氏のリンク集からも幾つかたどれますが、 例えば Ecole nationale des chartes の

また、少し古いものですが、多くの写本の複製があって便利なものでダウンロード可能なものとして

もあります。

日本語では、西洋中世史・音楽史を研究されている山本成生さんが、ブログで四回にわたる講座を書かれています。

(四回続いてのエントリーの形で書かれています。)

学習について

一番良いのは、残念ながら、なかなかそうした機会はないと思いますが、 自分が読みたい分野・時代の写本を研究・校訂している専門家について勉強することです。

というのも、基礎的な部分での省略の仕方などは、分野や時代の違いを問わず ある程度共通しているのですが、一歩踏み込むと、例えば 同じ省略記号であっても、分野によって何を省略しているかが変わってくる等、 それぞれの分野・時代ごとの違いが大きくなってくるからです。

それゆえに、写本学一般の専門家が、常に一番適切にある特定の写本を読むことが出来るわけではない、 というのも面白い点です。その分野特有の癖への慣れと、何よりも対象としているテキスト自体への 知識が必要となってくるからです。

実際の教育の場面では、幾つかの基本的な規則 (p、q に関係した省略法、動詞 sum や et の記号)を教えて、 あとは実地に、個々の写本(のコピー)にあたりながらケースごとに学ばせていく、というのが一般的なようです。

つまり、この分野に関しては、どこで学んでも、最初の基礎的な知識を覚えた後は、 一つ一つの事例を通して慣れていく、というのが一般的な学習方法ということになります。 これは、学習方法の研究が不十分といったことではなく、 実際のところ、対象とする領域の多様さゆえに万能の単一のメソッドを作るのが難しい、という 対象自体からくる困難さのようです。そのため、上に上げたような学習教材も、個々の写本の複製が中心となっていて、 そうした個別例を通して学んでいくと言う形になっています。

中世の論理学写本研究の分野では中心にいる一人であるデンマークの Sten EBBESEN は 「結局、読んで、読んで、転写して、転写して、転写するしかない」と言っていましたが、実際その通りなのでしょう。 結局、最終的には、読みたい、自分にとって必要な写本をひたすら読むしかないのですが、 自分で学ぶ方法としては、上に上げたような複製が沢山載っていて、その転写解答も載っているテキストを使って 基礎的な知識に慣れる、ということになるかと思います。

句読点の問題

時代を下れば、現在のそれとは違った形ではあっても、それでも句読点はあるのですが、 一般に、それぞれの母語、ないし校訂本が刊行される国の言語に準じたものにするのが基本です。 ごく例外的に「中世には句読点がなかった。それゆえに私は句読点をつけない」 という方針を持った校訂者もいますが、これはある時期以降のものに関しては事実に反しています。

そうした問題があるゆえ、写本にあたる事をせず、校訂されたテキストを使う場合でも、 少なくとも句読点に関しては、刊行本を読んでいて不自然に感じた場合は、 自分なりの再構成を考えてみた方が良いかもしれません。 特に、ヨーロッパ語を母語とする人たちは、かなり無意識に自分の母語の句読点法を 適用していたりします (別の言い方をすれば、校訂本というのは、決して中立的なものではなく、 多かれ少なかれ校訂者の意識的、無意識的解釈を反映しているということです)。

フランス(パリ)での学習について

この情報が有用なケースも少ないとは思いますが、私自身、現地でも 情報が手に入りにくくて苦労した経験から、知っていることを記してみます。

一般に流布している(とくにフランスで)聴講すら難しい狭き門というイメージとは違って、 国立古文書学校 Ecole nationale des chartes の聴講生には、授業の担当教官の許可さえ もらえれば、比較的簡単になることが出来ます(早めの登録が必要です)。 ただ、初級のコースは意外と人数が多いこと (また、エリート校のイメージとは違って、今はラテン語が出来ずに入ってくる人も結構いて 出来る人と出来ない人の間の差が激しいです)と、公的歴史文書が中心なので 哲学的・神学的な文書を読みたいのであれば EPHEや、 EHESS 等での授業に(も) 参加した方が良いかも知れません。 例えば、EPHE の文献学セクションでは、様々な基礎授業が行われていますし (参加した限りでは ENC より一クラスあたりの参加人数は少ない)、 宗教セクションの方では、主に13世紀の哲学・神学写本を読む演習が行われています(いました)。

またIRHTでは、写本を読んだ次の段階、 つまり、そこから実際にどのように校訂本を作るのかといった 段階の授業あります。

校訂についての技術的な話

Classical Text Editor:周りではこちらを使っている人が多いようです。WYSIWYG であることは利点だと思いますが、個人ライセンスは安いとは言えません。

LaTeX + ledmac 個人的に使っているのは、この組み合わせ。

LaTeX を用いたテキスト校訂については、 和歌山大学教育学部の小栗栖等先生が次のようなページを 公開されています(項目2の「コンピューターを使ったテキスト校訂」を参照。 注意の文を飛ばさないようにそのページへの直接リンクはしていません。)。